Balsam
書類をまとめてくくりつける、その様子を僕とヒラタはぼーっと眺めていた。
「江波さん、すごいねぇ。僕は片付けるの、すごい苦手だよ」
「見たらわかりますよ…」
時々風来坊の血が騒ぐ僕だけど、科研にはなんだかんだ言って長いこと所属している。
仕事は苦手だけど、研究に没頭してても文句を言われない環境ってのは、とても貴重なものだったから。
…もう、過去形になってしまうのが、悲しいことだけれど。
今月末で、南東京科学研究所は閉鎖される。
所員各自に荷物を纏めるよう通達が出されたのは先週のこと。
…だったんだけど。
着任から1年しか経っておらず、もともと警察からの出向扱いの江波さんには、自分のデスクの周囲に私物はほとんどなかったらしい。(…十手くらいのものだし、と彼女は口にしていたけど。十手が私物な女の子って、僕は彼女の他に知らない。)
終業時間後でいいから、と片づけの手伝いを頼んだら、割とすぐにやってきてくれて…しばらく絶句していた。
まあ、片付けるの、苦手だから。
ヒラタの籠周辺とか、生き物の周辺には物を置かないんだけど、自分の周りは山でしかなくて。
彼女が来たときには、僕はうっかり手を出した書類の波に飲み込まれていたんだ。
だって、ホラ。いくらなんでも、書類が自分の身長を超えて山積みになってるなんて、思わないでしょ?
「すごいねー。江波さん。僕なんか、遭難しかけてたのに」
「自分のラボで遭難するような人は植木さんくらいです!」
そう言いながら、最後の書類をダンボールに詰め込んでくれたのは、もう日付も変わった頃のこと。
整理整頓は得意な方らしく、僕にしかわからない書類の分類以外はすごい勢いで片付けてくれた。
「さて…こんなもんですね。まったく…
もう、書類を溜め込んだりファイルし忘れたりしちゃ駄目ですよ?」
「はーい」
江波さんはいい人だ。
でもね、もう、書類を溜めるようなことはないんだよ?
だって、ここは閉鎖されちゃうんだから…
ねえ、君はどうするの?
あんなにこの仕事、楽しそうにしてたのに。
楽しそうな君を、僕はもう見ることができないの?
「江波さんは、これからどうするの?」
「へ?」
あの事件の後、蝶ヶ島の研究ホールの鍵が、僕の家に届いた。
江波さんはそれを知って、なんだか悲しそうな顔をしていた。
僕は、彼女がそんな顔をしたことが悲しかった。
江波さんも、一緒に来てくれたらいいのに。
でも、それは言っちゃいけないような気がして、僕は。
「もしよかったら…」
ポケットの中に、レシートがあった。
広げて、見る。
牛丼、380円。
「明日のディナーを、ご一緒しませんか?」
少しの間、彼女は呆気に取られていた。
僕は、レシートをひらひらさせた。
「って、芦茂さんに教えてもらったんだ。お礼を言うときにはそう言えって」
勝手に名前出して、ごめんね、芦茂さん。
江波さん、爆笑してたよ。あの人らしいって。
そして彼女は帰っていったんだ。
僕は泊り込むつもりで、ヒラタを籠に入れたとき、予定外の水分が籠の中の腐葉土を湿らせた。
ああ、涙だ。
ごめんよ、ヒラタ。君は塩気は苦手だってのに。
もう、僕は、あの笑顔を。
手を伸ばし、さっきまで、君がいた虚空を。
この、手を伸ばせば触れられそうな距離であの笑顔を見ることは、もうない。
――南東京科研、最後の事件が起きたのは、それから10日後のことだった。