Sanguisorba






 どんなに普段頼りなさそうに見えても男の人なのだな、と。
『江波。これは科学捜査の存在意義を賭けた戦いなんだ。』
 歳末、植木の『格好つけた所長の真似』を見たとき、ふと識子の頭に、晩夏の思い出とともにそんな考えが過ぎった。
 本気でただ『真似』だったのか、それとも照れ隠しだったのか。
 多分、それは本人にすらわからないのだろうけれど。



 夏の空は澄んでいて、眩しいほどに輝いている。
「ほらほら、江波さんも!」
 そう声を上げると、掌だけで作った即席の水鉄砲を識子に向ける。
「きゃ!」
 存外器用に撃たれた水は狙い違わず、反射的に庇った手で一度はじけて頬にかかる。
「ああ、もう…服が濡れちゃうじゃない」
「今更気にすることじゃないと思うんだけどな」
 そう言ってにこにこと笑う自分はちゃっかりハーフパンツなのだから始末に終えない。
 少しわざとらしいほどの大きなため息をついてみせると、確かに今更なほど水分を吸い込んだパーカーを見下ろした。

 天気の良い平日。取りそびれていた休日をようやく消化している識子を、植木は突然連れ出した。
 慌しく追い立てられるように乗せられた車。何故あのカブトムシ型に制服まで積み込まれたのか、今更ながら理解したのだ。
(っても、下着は…まあ、そこまで濡れないよう気をつければいいか)
 うだるような暑さを放つ晩夏の太陽に照らされた日中にも関わらず人気の多くないこの場所は、昆虫採集の途中で見つけたのだそうだ。
 キャンプ場まで整備されているこの渓谷、決して立ち入り禁止だとか言うわけでなく、ただここまで道程のの不便さが不人気の原因らしい。
 川を覘いては何とか言う魚がいるだの、石をひっくり返してはカワゲラがいるだのと騒ぐ植木の生き物探しに付き合いきれず、ぼーっと大きめの石(地面と繋がっていない限り、それは石なのだそーです)に座っている識子を見て、植木は悪戯を仕掛けたのだ。
 そうやって清流をざぼざぼと蹴立ててはしゃぐ様はいつにもまして子供っぽい。植木自身の人懐っこさもあいまって、どことなく大型犬のようにすら感じられる。それもシッキーあたり。
「あ!流木ハッケン!何かいるかも…」
「植木さん! …もー、そのうちケガしますよ」
 キラキラと水しぶきを跳ね上げるその様に、識子は少し、口元を緩めた。

 陽が暮れようとする頃には、少し肌寒さを感じるあたり、蒸し暑さだけが支配する街とは違うのだなと実感する。まだ昼の暖かさを持つ石を拾い上げ、識子は立ち上がった。
「えいっ!」
 1、2、3…。
 3回、黄昏に染められた水上を跳ねた後、石はそこが水面だったことを思い出したかのようにぽちゃんと音を立て、川底へと吸い込まれた。
「お?やるねえ、江波さん!」
 いつから見ていたのか、嬉しそうな声を上げると僕も僕もーと石を投げる。
 ぼちゃ。
「あれ?」
「今のは石が悪かったですね。もっと平べったいのにしないと…」
 識子はそう言いながら拾い上げた石を植木に手渡す。
「じゃ、もう一回!
 …それ!」
 1、2、3、4、5、ぱちゃん。
「やったー、5回!!江波さーん、見た、見た?」
 真剣な顔から一転、破顔し嬉しそうに腕を振り回す植木を少しだけ複雑な顔で見つめて、少し微笑む。そろそろ帰ろう、そう声をかけようと、見た目の印象よりも広い背中へ近付いた、その時だった。
「もう一回!」
 どん。
「きゃ…!?」
 急に振り返った植木にぶつかり、哀れ識子は川の中へ…。
ばっしゃーん!
「大丈夫!?」
「大丈夫ですけど、冷たいです…」
(ああ…下着。どこかで買わないと…)
 水の中で尻餅をついた格好のまま、識子はなんだか泣きたくなった。

「ごめんね、江波さん…僕、はしゃいじゃって」
 しゅん…とうなだれる様は、本当にしょげ返る大型犬のようで。少しむくれてはいたものの識子にはそれ以上の追求をする気は起きなかった。
「いえ、いいですよ。それに、最初から服はびしょぬれだったんですから」
 だから気にしないでください。貸してもらったタオルで髪を拭きながらそう言うと、植木はぱっと顔を挙げて明るく微笑み――すぐさまそれは、眉根を寄せた険しいものへと変わった。
「江波さん。その手…」
 そう呟きながら、ひょいと識子の細い左手を掴む。
「怪我してるじゃない!よく見せて」
「あ、それは――たいした怪我じゃないですよ」
 川底の石に思いのほか鋭いものがあったのだろう、確かにそこには怪我があった。小さなものだ。気にするほどのものではないと思っていたのだが、手首、それも掌側という場所が災いして、血がなかなか止まらずにいたようだ。
「うーん…出血は多いけど、確かに。コレくらいなら、なめときゃ治るね(ぺろ)」
「うひゃ!?」
 何の躊躇もなくぺろりと傷の辺りをなめ上げられる。色気のない悲鳴を上げて、識子は僅かに飛び上がった。
「植木さん!?なな、何を……」
「何って。消毒」
 さらりと答えると、さらに2度、3度と温かくぬめった感触が手首を這う。
(ええええ〜!!?そんな、何か間違ってる〜!)
 顔を真っ赤にして、口元だけがあうあうと動く識子に気付いているのかいないのか。植木は『消毒』を止め様としない。
 数瞬、渓谷に沈黙が降りる。
 そっと手を離す植木の、その吐息が熱を持っているように感じたのは、識子の気のせいだろうか?
 空は黄昏の金色を失い始め、藍がその支配を取って代わろうとしていた。

「ねえ、江波さん――ちょっと、見てて」
 なんとなく沈黙したまま、陽が消える。
 先刻までの輝きなど、どこにも無かったかのように――
 否。
 ふわり、ふわりと。
 太陽とは違う、穏かな光が、辺りから――
「…蛍…?こんな時期に?」
「ホタルの種類は多いんだ。初夏に光るゲンジボタルだけじゃなくて、ヘイケボタルやヒメボタル…」
 続く解説を右から左に聞き流し、識子は舞い飛ぶ光を見つめていた。
「とりあえずは、この時期まで飛ぶホタルもいるってこと。」
 そう言って微笑む植木の目は、優しさを湛えながら識子の横顔を見ていた。
 意識もしないままに、唇が静かに動く。

 ――吾木香 すすきかるかや秋くさの さびしききはみ 君におくらむ――

「え?何か言いましたか?」
 振り向く識子に首の動きだけで否と伝えて。
 大げさなくしゃみをひとつして、じゃあ帰ろうか、と識子を促したのだった。