猫の手 (はとむぎの挑戦)



 見事に入った3本線は、結構ひりひりしている。

「おはよー……って、うわ」
 昼休み、休憩室で鏡を気にしている識子に声をかけ、即座に引き返そうとしたのは植木である。
「いきなり『うわ』は酷いんじゃありません?」
 怨みの滲み出た声を出しながら植木の白衣のすそを掴んだ識子。その左頬には、綺麗に3本の線が刻まれている。
 植木は逃げられないと察し、ヒラタに被害が及ばないようにと引っ張られてできた白衣のたわみを気にしだした。
「それは、猫かな?前から時々、服に毛がついてるなーとは思ってたんだけど」
「さすが。言うより前にわかるなんて」
 そりゃまあ、と妙にしょげた植木の様子を横目で見て、識子は再び鏡と格闘を始めた。
「……で。江波さん、それ、何してるの?」
「見てわかりませんか?化粧ですよ、化粧。うー、染みる……」
 言われて良く見れば、彼女の手元には大小さまざまなコンパクトが転がっている。それで傷をごまかそうというのだろう。
 ……しかし、これでは。
「やめといた方がいいんじゃない?」
 コンパクトを手に取り自分にはあまり縁の無いものをしげしげと眺めながら、植木は続きを口にした。
「染みるんでしょ?傷によくないと思うな。」
 それよりはほら、こっちむいて。
 そう言って何の躊躇もなく識子の右頬に手を伸ばし、顔をくいっと持ち上げる。
 一瞬だけ傷を凝視してうわ、という顔をした後ぺたりと傷の上にもう片方の手を重ねた。
「ばんそうこ。ちょうど持ってたんだ。使ってよ」
 そう言ってにこにこと笑う植木の、両手は頬から離れようとしない。
「えっと……植木さん?」
 なんとなく頬が熱い気がしている識子、植木はそれに気がついているのかいないのか。
 大判の絆創膏を貼り付けた右手は絆創膏の上から優しく識子の頬を撫で、ひょいと机の上に転がったままだった口紅を拾い上げた。
 片手で器用にひねり出し、すっと識子の唇の上を滑らせる。
「ん、これで良し。江波さん綺麗だから、これだけで大丈夫だよ」
「あ……あは、あははは。そんな、似合いませんよ植木さん、芦茂さんの真似したって、ねえ」
 識子は動揺を隠すかのように無理に明るい声を出して、右頬を未だ離れない植木の左手に触れる。
 触れて、後悔する。その手の熱さは、自分の頬から移ったものだけではないだろう。
 男性特有の骨ばった指が、丸みを帯びた柔らかい指を絡め取る。
 熱が、


 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ。


「江波所員。所長がお呼びです。今すぐ所長室に来るように、と」
 秘書ソフトがいつもの冷静な声で呼び出しを告げる。
「あ……すいません、行かなきゃいけないみたいで」
「うん、そうみたいだね。行ってらっしゃーい」
 植木はいつものごとく明るくそう言うと、識子の頬に軽く口付けた。




 その日の午後、所長室に訪れた識子の真っ赤な顔を見た所長と警視正が彼女を慌てて医務室に運び込んだという記録が残っているが、そんなのは実にどうでもいい記録だろう。