千夜一夜
あれから、もう2年半が過ぎた。
自分の失敗の割をまともに食らっているのが自分ではないことにもどかしさを感じる。
最初の一月は、そのうちひょっこり顔を出すのではないかと、ウェスとも連絡を取り合っていた。 そういえば、いつからだろう。連絡を取り合うための鳩が訪れなくなったのは。
次の一月は、山を探した。
町の状況を知って、帰るに帰れないのかもしれない。どこかに人の暮らした跡があるのなら、それだけでも見つけようと。
やがて、川底にも目を向けるようになった。オソヘからの川の流れなら、子供のころに探検していた。いつか帰るんだという野望を子供心に秘めていたころを、思い出すだけでも苦笑がこみ上げる。死体探しのために身に着けた知識じゃあ、ない。
それでも見つからなくて、次の月にはマジプシーたちを訪ねた。
自分の親となって育ててくれたこの人たちなら、何かを知っていても、と。
彼女らの家を訪れ、何か変わりはなかったか尋ね、また島中を歩く。
それから半年、まだ生きていると信じていた。
一年経って、もしかしたらと思い始めた。
二年が過ぎた今、生存に疑いを持っている。
そのうち、どこから来たのかわからない人間が、増えてきた。
雪山のマジプシー、リディアの家を訪ねていた時は、山裾に伸びていくハイウェイ――なぜか、マジプシーたちはその名前を知っているようだった――の徐々に広がっていく様が、少し気味悪く感じられたものだった。
この島には、そんな大量の人間はいなかったはず――
彼はもしかしたら、増えていく人口の中に紛れ込んでいるのかもしれない。
そう思い、気を抜くと悲観的になりそうな自分を奮い立たせると、島の真ん中にできた夜も明るい場所へと向かって歩みを進めた。
ドリアの家の近く、切り立った崖の上にクラブ・チチブーという建物ができていた。
身なりを整えているか、もしくはどこかの制服でないと建物の中に入るのは困難――いや、入ること自体は簡単だ。ただ、もしそれで何の関係もない場所だったら、面倒なことになるだけだ――だったのだが。伸び放題だった髪を綺麗にまとめ、新しい服を見繕っててくれたドリアに感謝した。建物の横に貼ってあった「アルバイト募集!」というチラシを見て、それが何なのかもしらず紛れ込むためだけに、そのチラシを見てきた、と告げた。
DCMCとかいう楽団……バンド?まあ、そういうやつらの公演を手伝うこと。それを見に訪れる、制服を着た人たち――驚くことに、多くの人がタツマイリの村人だったようだ。気付かれないために、偽名を名乗ることにした――の慰問。それが、「あるばいと」のオレに与えられた仕事の内容だった。
何が良かったのか、しばらくオレの顔をまじまじと見た店長と名乗った男は、「言葉遣いを直してくれれば、一番の稼ぎ手になるだろう」と、住み込みで働くように指示した。だが情けないことにオレ自身はというと、DCMCのポスターに書かれた、探してるのとよく似た顔に釘付けになって、その意図にまるで気が付いていなかった。
「タメキチちゃんが気になるの?…若いのに、ずいぶん通好みな子だね。
ちょっと暗い、陰のある感じがいいって人も多いみたいだけど…
でも、大丈夫よ?うちで働いてれば、彼らとお近づきになる可能性だって…
あら?うちで働いてくれるの?そりゃぁ良かった!」
それからしばらく、目も回るような忙しさが続いた。
配置されたのがホールスタッフではなくカウンタースタッフだったため、公演中は暇なのだが、それではDCMCの連中と顔を合わせる機会もない。休みでも取れれば、その日に見に行くことも可能だったのだろうが、住み込みだったこともあって、なかなかうまくいかなかった。
そんな日が続いたある日、ようやく、一日まとまった休みが取れた。
部屋の中には、ずいぶん大きな浴室があった。
普段はシャワーの方が好きなのだが、普段の疲れを落としたいという思いもあって、珍しく湯船に浸かっていた。
…もし、普段どおりシャワーだったとしたら、気が付かなかったかもしれなかった。
誰かの足音が、鍵をかけていたはずの部屋の中に忍び込んだことに。
はっとして、気配をうかがう。気配は、浴室のオレを伺っている。
PKを使うために集中した。ドアの向こうで身を潜めるような気配がした後、その気配は部屋のどこかから出て行った。
いつの間にか緊張していた体が、湯船の中でまだ、硬直していた。
浴室内で着替えを済ませ、部屋の中を見渡す。
不気味なほど、いつもと変わらない部屋の中。荒らされていた方が、いっそしっくりくる。
もしかしたら、いつもシャワーを使っている間、誰かが入っていたのかもしれない。そう考えると、薄ら寒さが背筋を駆け上る。
鍵を確認する。かかっている。誰かが部屋の中にいるのに気が付いてから、鍵を開閉した音は一切耳にしていないから、この鍵はずっとかかっていたことになる。
もう一度、室内を見渡していると、ドアが軽く二度、ノックされた。
恐る恐る、ドアを開く。
そこに立っていたのは、店長だった。
「どうしたの?ヨシコシちゃん。ずいぶんと怖い顔しちゃって」
不思議そうな顔をしている店長に、慌てて愛想笑いを向けた。
「ま、いいか。今日はね、ちょっとお給料の話があるの。いいかな?」
そういいながら、彼は片手に持った葡萄酒の壜と二つのグラスを掲げて、不器用なウインクをしてみせた。
「ヨシコシちゃんの働きぶりってすごいじゃない?それでね、売店の売り上げにもずいぶんと貢献してくれてるでしょ?だ・か・ら、ちょっとお給料を増やしてもいいかなーって思ってるの」
店長はずいぶんと上機嫌に話続け、グラスに葡萄酒を注ぐとオレの前に置いた。
「あ、飲んで飲んで。これはね、普段の感謝の気持ち」
そういいながら、自分の分と思しきグラスにも注ぎ始める。
どうにも、この男の明るすぎて軽薄そうな雰囲気は好きになれない。
胡散臭さを感じながらも、飲まないのも失礼かと思いなおし、グラスに口をつけた。
旨い。
葡萄酒はそういう飲み方をするものではないと思いながらも、一気に飲み干した。
…いや、少し気を落ち着けたかっただけかもしれない。
「いい飲みっぷりだねぇ。もう一杯行く?」
そう言って葡萄酒の壜を掲げる、店長。軽く頷いたのを見て、赤紫の液体を空になったグラスに注ぎなおした。
手に取り、今度は少量だけ口に含む。
「でも、ヨシコシちゃんて不思議な子だねぇ」
心底意外だ、という顔をしながら、店長がそう口にした。
「ずいぶんガード堅そうに見えるのに、こんな休みの日になんの躊躇もなく男の人を部屋に入れちゃうなんて」
ずいぶんと軽く、そう口にして、自分の分のグラスを手に取る。
「さっき、覗きに入られたばかりなんでしょう?」
そう言って、にやりと哄う。
まだ、そのことは誰も知らない。オレと、覗いた当人以外は。はっとし、立ち上がろうとして、初めて。足に力が入らないことに気が付いた。
「いい飲みっぷりだったもんねえ。薬の回りも早いってもんだよね。それに、お風呂に入ったすぐ後って、この薬、よく回るの」
気が動転してしまって、PKを使うだけの集中ができていない。
顔が蒼ざめたのを自覚する。
叫ぼうとしても、大きな声が出せなかったのだ。
「うんうん、いい顔だよね。ヨシコシちゃんって美人だから、すぐにお客さん取れるようになるよ。僕が保証する。いや…保証は味見の後にしとこうか。顔は良くってもあっちがだめじゃあ、お客さんに満足してもらえないものねえ」
言っている意味は良くわからなかったが、そう言いながら上半身を脱ぎ曝した。
適度な筋肉のない、人を使い甘い汁を吸うのに慣れきった人間のたるんだ肉体。
初めてみる異性の裸、それも醜悪なもの。
思わず目をそむけると、顎を捕まれ、顔を真正面から見据えられた。
欲望と怠慢、傲慢で汚れきった瞳。なぜこの目に気が付かなかったのか。
「大丈夫、ここよりずっとお給料はいいところだから。僕に入ってくるお給料はね」
そう悪びれる様子もなく微笑む。さっき手にしていたグラスの中の液体を、こじあけられた口の中に流し込まれる。鼻を摘ままれ、呼吸ができなくなって、むせ返る。口の周りを、服を汚し、ソファやカーペットの上にまで薬入りの葡萄酒が飛び散った。
「あーあ、だめだよ、汚しちゃあ。仕方ないなあ。ヨシコシちゃんには特別だよ?」
まだ咳き込んでいるオレの鼻を摘まむと、むりやり上を向かせ、壜ごと口の中に液体を突っ込まれた。あっという間に口から溢れ帰り、体の表面を多量の液体が流れていく。
屈辱的な状況に、泣きたくても酸欠の方が先に立つ。口の中に残った液体を飲み干し、咳き込むように新たな酸素を求めるオレを、あの軽薄そうな目が、酷薄な笑顔で見下していた。
「今は苦しくても、じきに慣れるよ。それまでの辛抱だね。君はプライドが高いから、お客さんにもそれまでの過程を楽しませてあげられるんじゃない?」
何が楽しいものか。必死に酸素をむさぼりながら、睨み付けた。
そのオレの顔を、男の足が蹴り上げる。ソファから転がり落ちた。
その拍子にオレの足がテーブルを引っ掛け、倒した。グラスが転がり落ち、綺麗とも思えるほどの音を立てて割れた。店長は、その破片を手に取るとそれをしげしげと見つめ、呟いた。
「ま、今はなんとでも思っておくといい。これが僕の楽しみなんだ。君にも、じきわかる」
顔の横に跪くようにして、片手でオレの髪をもてあそぶ。
もう片方の手が、オレの服を、グラスの破片で切り裂き始めた。
一気に繊維を引き裂く高い音。破片は時折肌を傷つけながら、手馴れたように下腹部まで近づく。
覚悟できるわけもない。ただ何もできない恐怖に硬く目を瞑った。
破壊音が響く。
目を開けると、ドアが破られ、そこから一人の男が飛び込んできた所だった。
ダスター!そう叫んだつもりが、喉の奥からひゅうひゅうと息が漏れ、声にならない。
アフロの髪を揺らし、ステージ衣装と思しきピンクのスーツを身に着けているけれど、ポスターで見るよりも間違いなく、彼は、自分が探していた、あの男だ。
「…この一年の間に、ずいぶんと女性が様変わりすると思ったら…やっぱり、こんなことか」
ダスターは、こちらに目もくれないで、店長に話しかけた。
ダスター、ダスター!
「何を言ってるの、タメキチちゃん。彼女と僕はこういう仲なんだよ」
平然とおぞましい嘘を口にする男に、今更ながら吐き気を催す。
ダスターは、それでもこっちを見ない。いや、たまに目をくれる。でも、その目は。
「…あんたがそういうのは勝手だが、俺たちだって馬鹿じゃないさ。
こんなにもハイペースで住み込みの子が変わり続けるなんて、おかしいと思うに決まってるだろ」
知らない誰かを見るような目で。
「この子が来る前の前にいなくなったベチカは、俺と付き合ってたんだ。ベチカにも、こんな仕打ちをしたっていうのか」
嗚呼。
「…DCMCのメンバーで、交代で君を見張ってた。現場に踏み込めて良かった…いつも、最後にはドアを通らずにいなくなっていたから」
そう言いながら、助け起こされる。
ジャケットを脱ぎ、切り裂かれた服の代わりにオレの肩にかけてくれる。そんなさりげない優しさは、元のままの彼だというのに。
「くそ!何だって僕がこんな目に!」
店長は悪態をつくと、ドアの方に駆け出し…ぬっと顔を出した、クマのような体格のヒゲ男に行く手をさえぎられる。その後ろにはスキンヘッドの男の顔も見える。この店の用心棒として雇われている二人組だ。
「どこに行きなさるんです?店長」
その顔は、事態を把握している人間の、憤怒の顔。
「ヨシコシ姉さんは、あんたとそんな仲じゃない。勝手なことを言うのは、どうかと思いますがね」
たじろぐ、店長。しばしの間、部屋の中の人間を憎悪に満ちた目で見回すと、叫び、部屋の隅へと走りだした。
「このままですむと思うな!」
部屋の隅の床をけると、そこには空洞が開いていた。
空洞へと飛び込み、店長の姿が見えなくなる。
「逃がすか!」
「待てー!」
床の穴へと、クマヒゲとスキンヘッドも追い立てて行った。
「こんなところに、抜け道が…」
ダスターが呆然と呟くのを、どこか遠い場所での出来事のように聞いていた。
不安そうな顔だと思ったのか、安心させようとして、笑う。
以前の彼には、できなかった、明るい笑顔。
「大丈夫だったかい?ヨシコシちゃん…だったね」
絶望というのは、多分、今のような感情だ。
彼の腕を掴み、意外に背の高い顔を見上げた。引きつった表情を自覚する。
「もう大丈夫だよ。またあいつがくることもないだろうから…えっと…もう、行くよ」
「ダスター」
引き上げようとする彼の腕を、放さない。
彼は、自分が呼ばれたとは、思ってもいない。
「不安なのかい?…困ったな。でも、このままってわけにはいかないよ。部屋を片付けないと。…なんなら俺がやっておくから、その間、シャワーでも浴びて、落ち着いた方がいい。
…ひどい顔色だよ?大丈夫?」
困惑した表情で、頭を掻く。一瞬、アフロが不自然な揺れ方をし…というか、ずれた。
その下から覗く髪の色は、疑念を確信に変えるには十分で。
「ダスター、…わからないのか?オレだ、クマトラだ」
もう一度、彼の名前を呼んだ。
彼は真剣な顔で、首を傾げた。
「クマトラ…たしか、この辺りの昔話で、そんな名前を聞いたけど。君はそのお姫様なのかい?」
「ダスター!」
「怒らないでくれ…君の言っている意味がわからないんだ」
少し困った顔をして、それから、ふと思い出したようにオレの目を見た。
「俺も含めて、DCMCのメンバーは全員記憶喪失なんだ。君が俺を知っているなら、俺は君を忘れている」
少し申し訳なさそうな声色。
「ごめんよ。…君みたいな可愛い子を忘れて、俺は。
でも、君のことを思い出せない。
俺はDCMCのべーシスト、タメキチだ。君の知っている誰かじゃない。
…いつか思い出すかもしれない。でも、それまでは。
ここで知り合った友人になら、なることができる。
それで許してくれ、というのは…無理な話だろうか?」
オレは、首を静かに…左右に振った。
いつかは、思い出すかも知れないのなら…それにかけよう。
生死もわからないまま捜し歩くよりは、生きているのがわかっただけでも、ずっと嬉しい。
可愛いと言われたことは…今は、おいておこう。
すっと、右手を出そうとして。葡萄酒でべたべたになっていることに、今更ながら気が付いた。
両手を後ろに隠し、あの店長だった男に教わった愛想笑いを顔に貼り付ける。
「よろしく、タメキチ…わたしは、ヨシコシ。
いつかあなたに、クマトラだともう一度名乗る時が来るまで、ヨシコシでいるわ。
…ベチカさんが、見つかるといいわね」
もう、顔を見ていられなかった。まだ痺れる体を鞭打ち、彼の脇をすり抜けるようにして浴室へと逃げ込む。
羽織らせてくれたジャケットを脱ぎ捨てると、痛い程強いシャワーを服のまま浴びた。
涙が出たような気がしたが、本当に泣いていたのかどうかは、オレ自身にも判らなかった。