ロンリー・チャップリン
イリーナ=フォウリーは聖女だった。
信仰こそ凡百の神官程度だったが、至高神より賜った人類最高域の力は、確かに余人に成し得ぬ功績を彼女に与えた。
彼女の力は生涯決して正義を失わず、正義を司どる神の御名の元に揮われたと言う。
例え世俗の者と恋をし、純潔を失おうとも、彼女はその精神の純粋たる有様を持って聖女と讃えられただろう。
このようなことに、なりさえしなければ。
目覚めた時、周囲の違和感より身体中に走る痛みの方が先に気になって、歳を食ったものだと――まだ18でしかないはずなのだが――実感する。固く、硬く、堅い寝心地は好ましいものではない。この場所がいったいどこなのか、既に知っていた。というか、起き抜けに使い魔に問い詰めれば、始終を見ていた烏には知らないなどと言えるはずもない。彼はたった今まで寝ていた場所を確認する。最後の記憶は、己の師が握りしめた錫から放たれた、(何故か)自らが放つものとは少し色の違う霧。遺失魔法だ、アレは。くそ。呪を憶え間違えているという可能性だけはわざと棚に上げ、地下牢を牢たらしめている鉄格子を見つめた。陰鬱とした気持ちはこの石畳の場所が与える印象だけの問題ではあるまい。
幼馴染が、死んだ。
傷一つないままに、死霊に、魂を穢されて。
幾度思考を遮ろうとも、常人より優れた自慢の脳髄――今程、これを憎いと思ったことはない――は最悪の可能性を模索する。
魂の死を迎えた場合、一昼夜の猶予を経て後人は死霊として禁断の生を受ける。
彼女が失われることでさえ胸を引き裂くような苦しみだというのに、その魂が、彼女が仕える神に祝福されることさえないとなれば、この身はその絶望に耐え得るのか。耐えて、魂なき肉体を滅ぼす――それは、間違いなく「仲間」である己たちの仕事となるだろう。彼女と彼女自身の生家であるファリス神殿の為に――ことなど、できるのか。
蘇生の儀式は、おそらく今まさに執り行われているだろう。その成功を祈りながらも、自分の思考を呪う。
しばしの間、静謐な牢を覆う重い空気に、敬虔なファリス信者は神を信じることを放棄したまま懺悔した。
今、もっとも恐れていることは。
彼女の汚された精神を、神は変わらず寵愛するのかということだった。
寵愛に値しないとされてしまった時、果たして神は、その奇跡を彼女に与えるのかということだった。
もっとも彼女の魂を貶めているのは自分の思考かもしれない、などとは思い至らなかった。
それほどまでに、ここまで運んだ彼女の体は凍りついたように温度を、弾力を失いゆく様を己の背中にひしと伝えていた。
洞窟の手前からマイリー神殿まで、数時間もの飛翔の間、幾度死による絶望と奇跡への希望を交互に繰り返しいただろう。
いっそこのまま、集中を失って彼女の遺骸諸共にに破片も残らぬような高度から叩き着けられたらとさえ嘆いた。
飛翔ぶことを辞めてしまえば彼女が救われることが永劫ないと知っていたから、救われる可能性を求めて嘆きを打ち消した。
それでもまた嘆き、奮起し、なんと苦しい螺旋だったろう。
今己に許されることは待つことのみ。
慟哭するには、背に未だ残る冷たさ――それは、投げ出されていた石床によるものだけではなく、魂を削り刻み込まれたもの――は生々しすぎた。
祈りと思考、相反したそれらのみが己に残された最後の手慰みとでも言うかの如く、彼は跪き、貌をその無骨な掌で蔽った。
そして、唐突に理解した。
太陽を常につかず離れず見守る月が新月、陽と真逆に或る時には誰の目からもその身を隠してしまうように。
俺は、彼女なしではいられない。
彼女を失えば己の生きている意味すら見失う、そんなにも彼女に依存していた。
何が「兄代わり」だ、馬鹿者。俺が求めていたのはあの光の傍にあり続ける為の言い訳でしかない。
小柄な身体が一切の動きを止めてしまってから初めて、彼は笑った。
それは、手遅れになるかもしれない感情への憐憫と、愚鈍な自分への嘲弄だった。
かみさま、かみさま。
いりーなを、たすけてください。
どうか、たすけてください。
かみさま。かみさま。
ドワーフが牢を覗き込んだ時、それがあの暴徒かと思うような――いや、普段の彼を知っているガルガドでさえも、これがあの男かと疑うほどに―ー穏やかな表情で座っていた。囚人は幼い頃に狩人として仕込まれた名残りの耳の良さで、とうに訪問者に気が付いていた。軽く声をかけてくる。
「よう、おやっさん。……その顔を見るに、成功したんだな」
「うむ。1週間は絶対安静だがの。……また暴れられてもかなわんと思って来たのだが、なんじゃ。必要なかったか」
拍子抜けしたようなドワーフの低い声に、かぶりを振って応える。
「いや、助かった」
いつ脱走しようかと思案していたところだ、と軽口を叩くと、目に見えて戦神に仕える男の顔が曇る。「冗談に聞こえん」と嘆息交じりに呟かれたのはとりあえず聞き流すことにして、牢の中の男は立ち上がり、背を――実にオヤジ臭い動作で――伸ばした。
彼女の生還をもっと取り乱して訊くかと覚悟していた戦神官は、その暢気な動作に呆れながらも、仲間たちとの合流の為に戻ると告げた。
「おまえさんはどうするんじゃ」
ガルガドの問い掛けに、彼は残る意思を告げた。その宣言は予想のついたことであったらしく、一つ頷くとドワーフは牢番に声をかけて短い面会を終えた。
「1週間か……」
牢の中の男は低い声で呟くと、先程ドワーフに声をかけられた番兵に大声で呼びかけた。
「おーい!ここはマイリー神殿だったな。少し頼みがあるんだが!」
7日の猶予をどう使うのか、彼はもう決めていた。
もし、彼女が助からなかったのなら。
その魂が赦されることなく彷徨うことになれば。
すべての後始末を終えて後のことは、何も考えていなかった。
その時にはもう、自分の生など終焉したも同じことだっただろうから。
彼女に再度、あの輝くような笑顔でもって陽の下を歩く日が訪れるというのなら、するべきことはそれこそ大量にある。
まずは、そうだ。
己が傍にいることを、あの怪力娘に伝えなきゃならん。
傍に居座ることを、あの愛おしい少女に宣言せにゃならん。
だが、そんなこっぱずかしいことなど素面でできるものか。
まずは、自分にもっとも足らぬ「根性」とかそういったものを、鍛えてみるのが手っ取り早そうだ。
その場で以って彼、ヒースクリフ・セイバーヘーゲンはマイリー式説教部屋の使用許可を要請したのだった。