すばらしい日々






 幼い頃は、日々狩りに出て森から生命を分けて貰い、それを糧に生きるのだと、漠然と考えていた。
 その頃は、具体的なことなんて何も考えてなくて、漠然と(本当に漠然と)、森の中に見つけていたお気に入りの泉の横に小さな小屋を建てて、朝が来るより少し早くから身支度をして、弓と釣竿、そして小刀を携えて森へ出かけるのだと考えていた。
 日が暮れてしまう前に小屋に帰って、子供を2人抱えてる嫁さんの顔を見てああ、帰ってきたと実感しながら、獲ってきた獲物を調理し食卓に並べ、やっぱり小さな暖炉の前で子供たちに森の話をしてやりながら、夜が更けるのを待つのだろうと。
 暴れ疲れたガキどもを寝かせつけた嫁さんに「おつかれさま」って言ってもらう。なんとなく夢見がちな、そのくせ妙に具体的な話だが、歳の離れた兄姉たちの影響だろう。
 そんでもって、こう、俺は嫁さんを抱き寄せてだな。「もう一人ぐらい、欲しくないか?」と囁いて……


「あー……なんか、ヤな夢見た」
 昨日のヤケ酒が祟ったか。アタマが少しがんがんする。
 なんだかやたら気恥ずかしくて全身が痒くなる夢だった。何で今更、子供の頃の妄想を再現した夢なんざ見てるんだ俺。
 体は全身で気恥ずかしくなんかないと主張しているようだが、本能で生きてるような輩ならともかく、知性と理性のヒトとして世間の注目を集めるオレサマとしては……まあ、男だし、俺も。夢のことをふと思い返して苦笑する、あの漠然とした、ガキの世界の中で、どうしても思い出せないのは、嫁さんの顔だ――
 とりあえず身を起こし夜着を寝台に放り投げ、衣服を探そうとして――見当たらない。
 こんな頭痛がしている朝ってのはたいてい、その辺に脱ぎ散らかして、畳んだりなんざしておらんのだが。さて、と部屋を見回す。えーっと、あれだ。部屋の隅に散らばってるのは、昨日の、赤貧エルフが作って適当に飾り付けてたハギレの花だ。それを巻き込むようにして、大味な字で『HAPPY BIRTHDAY』と書かれている(間違えた文字を筋肉少女が大書する前に誰かチェックしてやってくれよと切に思った)適当な布。寝台には俺の夜着、イリーナ、毛布、飾りつけの鎖。……違和感。もう一度見回す。寝台、夜着、毛布、イリーナ。今度は絶句。イリーナが、オレサマの寝てた寝台で、俺の服を抱えて寝息を立てている。
 存在を主張してたオレサマのムスコがへにゃりと萎えた。

 さて、生命の危険を感じる前に冷静になってみよう。
 俺は今さっき夜着を脱いだ。ってことは裸ではなかったということだ。
 コレで、黒い鎧がどこからともなく現れて「You,guilty」とか言い出す可能性は低くなったということだ。
 まず最初に、イリーナの腕から服を取り返すよりも夜着を取り返す方が事態の収束には最適だろう。
 取り返し、知らぬ存ぜぬを突き通して、起こす。うむ。これしかあるまい。
 そう決めて腕を伸ばす。ぎしり。普段なら気にも止まらない床の軋みが気に障る。
 不意にイリーナが寝返りを打つ。
 仰向けになった無防備すぎる体。服を抱えたまま伸ばした腕。軽く曲げられた指先。
 何故だか、ぎくりとする。
(ああわかってる、わかってるさホントはなぜだかなんてレベルじゃないって体が主張してる鼓動が早い顔が熱い掌が汗ばむ喉が渇く視界が潤むムスコが主張してるああもう俺の馬鹿野郎こいつは妹分だってのに)
 寝返りの結果、夜着は小柄な体の下敷きになった。作戦変更。
 腕の中、というよりは胸の上に近い位置に散乱する俺の服。胸は小さい。いやそうじゃなくて。
 そろりと手を伸ばす。このタイミングでバランスを崩すとか、最悪すぎて目も当てられない事態を回避するには、寝台に手を突いた方がいい。
 寝台に置いた手を中心に、軋んだ音を立てて沈み込む寝台。慎重に距離を取ったはずが、指先に触れる、小さな手。
 いつの間にか呼吸を止めていた。唾を飲み込む。服に手が届く。
 イリーナが目を開いた。
 目が合う。
 きょとんとしている。
 顔が近い。
 汗が噴出す。
 この場を誤魔化すための方法を108ほど瞬時に考えてみて、とりあえずキスしてみた。
 触れていた指先を捕まえて、服に伸ばしていた手をイリーナの背に回す。
「!?」
 よし、これで事態が飲み込めてきたらしいイリーナに叫ばれることはない。
 ……視界に、この茶色の瞳しかないのは、危険だ。指先を離し、驚きに見開かれたままの瞳を覆う。
 唇を離そうとして、ほの甘い衝撃が背筋を走るのを自覚する。もっと味わいたくなるのを堪え、顔を上げる。
「イリーナ。……どうしてこんなところにいる?」
 自分で驚くほど低く、掠れた声。どこか、熱っぽいような……いかん、考えるな。
 まだ胸の上にあった俺の服を掴み上げ、俺の掌ごと顔を隠すようにゆるく巻きつける。
 何か言いたそうなイリーナの口に指先を這わせ、親指で口内を優しく蹂躙する。
 なんとなく湧き上がった悪戯心、ではない。
「いくらお前が常人離れした膂力の持ち主でかつ女の風上どころか風下にようやくこっそり置いてもらえる程度にしか色気とかそういったもんがないと言ってもな、男の部屋に入り込んで、あまつさえその寝台で一緒に寝てるってのは、どういう心境なんだ、ん?おまえがどう思ってるか知らんが、オレサマだって男だぞ、今みたいに思いっきり寝ぼける可能性だって考慮せんかったのか?」
 指を噛み千切られないよう祈りながら、後頭部に手を沿わせ、頭ごとイリーナの上体を起こさせる。
 その隙に、しわになっているだろう夜着を引き抜き、片手でごそごそと頭と腕を通した。
 少しだけイリーナの呼吸が荒くなっている。いかん、巻きつけるのがきつすぎたか。
 顔から(服を解かないように注意しながら、だが)手を離し、手早く袖を通す。
 服を顔から剥ぎ取ろうとするイリーナの手を捕まえ、わざと大きくため息を吐いて見せた。
「今度から、こういうことはしちゃダメだ。わかったな?よし、わかった」
 本人の意思を無視して無理やり首を縦に数度揺らす。そうしてイリーナの平衡感覚を狂わせておいて、俺は毛布に下半身を滑り込ませた。
「わかったなら部屋から出なさい。にーさんはこれから服を着替えるから。な?」
 今度は自分で頷いて、イリーナはようやく俺の服から開放された。
「ぷは。兄さんの服、ちょっとお酒くさくないですか?なんか、ちょっとおつまみのイカの匂いがするんですけど」
 しまった、巻きつけてたのは下着ごと脱ぎ捨ててたズボンだった。



 青くなったり赤くなったり忙しいヒースに、「寝ぼけてたのなら、さっきの所業はご飯、今日一日おごりで許してあげます」とだけ告げて(彼の財布の中身はもちろん憶えている。ノリスの蘇生費用も安いものではなかったのだから)、しくしくしくと口に出して泣く声を聞きながらドアを後ろ手に閉じる。
 ドアにもたれて、大きく深呼吸。
 ポケットから羊皮紙の切れ端を取り出した。
 今なら読める、共通語の文字。
「18になったら いりーなを およめさんに する」
 絶対憶えてない確信はあった。これは落書きに過ぎない。父さんが置きっぱなしにしてたエールを間違って呑んだ兄さんがケラケラ笑いながら、聖書の片隅に書いたものだ。
 父さんは聖書に書いたということよりもその内容に激怒していた。
 怒られながら、なんで18なのかと聞かれて、ヒース兄さんは『10年後のことだから』と答えたらしい。
 ポケットに羊皮紙を丁寧に仕舞い込むと、イリーナはドアに向けてあっかんべをした。
「ひーすにいさんのばーか。こんじょーなしー♪」