美しく燃える森






「ん……あ」
 自分の口からこんなに甘い声が出るものかと驚く。
「もう少し肩の力を抜いて」
 出ないと痛むぞ。切羽詰ったような声で耳元。囁かれる、違和感。
 どうしてこんなことになってしまったのか。
 見知らぬ男の体の下で組み敷かれながら、イリーナは思った。


  ■ ■ ■ ■ ■ ■


 切欠は些細なことだ、どんなときでも。
 それは重々承知していると思い込んでいた。
 月明かりに照らされる部屋の中でヒースは膝を抱き、子供のように震えていた。
 もしこの場にフレディがいたなら猛抗議したかもしれない。だがそれは仮定の話だ。
 もういない存在に、何を望んでも意味がない。
 何日も眠っていない時のような疲労と眩暈。
 それに従ってしまえばどれだけ楽になれるだろう。
 失うものの大きさは想像もつかない。

 イリーナ=フォウリーは年頃の少女だ。
 子供だ子供だと思ううちに、17になっていた。
 その彼女が一度死んだことを知って、キリング司祭は真っ青になった。
 その日から前にも増してイリーナを可愛がるようになり、花嫁修業をさせ始め、あれよあれよという間に見合いの席まで設けてしまった。
 見合いが決まった夜のことを、ヒースはおそらく一生忘れない。
『お前のような怪力馬鹿力のつるぺた娘に見合いしてくれるというだけでも、そいつの度量がわかるというものだ。良かったじゃないか、引き取り先が決まったようなものだな』
 言うが早いかイリーナの顔色が一変し、殴られると思ったのが見る間にその瞳に涙を浮かべ、席を立ったのだ。
 日にちだけで言うなら、あれから10も経ったのだろうか。
 エリーゼおばさんが見合いが順当に進んでいることを伝えに来たのは3日ほど前だった気がする。
 確か今日には、二人だけで出かけさせるのだとか。
 知ったことか。
 ヒースクリフは頭を抱えた。



 その男の顔なんか、まともに見たことはなかった。
 父さんの言うには熱心な信者の方らしいけど、それはこの人がじゃなくてこの人の両親の話だ。
 隣を歩くこの男の俗くさい会話には、心底うんざりさせられる。
 そんなに背は高くなくて、横を見れば目線の高さに鼻がある。
 服装には清潔感はあるけど、畳んだ皺がくっきり残っていて普段は袖を通していないことがすぐわかる。
 綺麗な指先は自分の肉刺だらけの掌よりも柔らかそうで、手をつなごうかという申し出は丁重にお断りした。
 口を開けばやれ自分はどこの神殿に幾ら寄付しただの、どこそこの研究費に幾ら投資しただの。
 かといってチャ・ザ信者の方のようにその結果の流通や交流などに興味がある様子ではなく、それだけ出せる自分に酔っているようだった。
 その一方で、森歩きをしたことがないことを自慢げに語る様子も癪に触った。
 曰く、森に入るのは自分の仕事ではなく、狩人や農民のようなダイイチジサンギョーの人間のすることで……とか何とか。
 欠伸をかみ殺し、愛想笑いを浮かべる。

 この人の会話には知性がない。
 自分が気付くほどだから相当なんだろうと思う。
 知っている難しい言葉を並べておけばそれでいいと考えている。それが頭の良さを証明すると。
 多額の寄進や投資をすることが、信仰の証明だと信じている。その他の方法の意味を理解していないから。自分からは人の苦難を引き受けるようなことはせず、言葉だけは綺麗に済ませる。『自分に与えられた仕事をこなすんだ』自分の仕事だけ済ませてればいいって物じゃないのに。
 ふと、知性に溢れる会話とは何かを考えようとして、思い出したくない顔が浮かぶ。
 振り払うように頭を傍らの男に向け、腕を取ってにこやかに笑いかけた。
 後から思えば、これが迂闊だったのだろう。
 男は自信に満ちた表情で、イリーナを観劇に誘ったのだった。



「うーす……て、なんだ?」
 小鳩亭に入るなり、気温の下がったような感じがして、ヒースは肩を抱くようにして奮わせた。
 呆れたような声で、給仕のハーフエルフが顔を出す。
「なんだ?じゃないわよ。気楽なオトコね」
 眉を潜めた彼女が小声で続けたのは、通じる者の少ない古代の下位言語。
『あんた、何やらかしたの?このままじゃ雰囲気悪くなる。階上の個室に空きがあるから、そっちに行って』
 周囲の視線が自分へと集中していることに気付くと、軽く手を上げ了承の意図を伝える。
 ぱたぱたと軽い足音で厨房へと向かったマウナの足音を聞きながら、彼は悠々と店内を横切り階段へと向かったのだった。

 マウナは酷く細めた目で、室内の椅子に腰掛けた男を睨みつけた。
「ヒース。イリーナは?」
 途端に軽い表情を浮かべた男の眉間に苦悶するような皺が刻まれたのを見て取り、嘆息する。
 不器用な男だと、切に思う。
「さあ?オレサマ何も知らんのだが」
「なるほど」
 それをあっさり信じるほど、この男を知らないわけでもない。
 額に手を当て、もう一度嘆息する。
 男は窓枠に頬杖を着いて夜空を見上げている。
 以前は良く見せた表情だ。使い魔を通じてあの危なっかしい少女を見守っていたときのような。
 意地を張っているようなその姿を見てふと、目の前の男が少し年下だったことを思い出した。今は使い魔など連れていない青年の傍へと立ち、ざんばらに伸ばされた象牙色の髪、その髪を縛るリボンへと手を伸ばした。するりと解くと、訝しげな目と視線がぶつかる。
「あなたがいいなら、ソレでいいわ。ヒース」
 誘うように呟きながら、そのリボンで自分の金髪を軽く結わえる。
「でも、わかってない。あんたは何もわかってない」
 頬杖を着いていた手を掴み、その掌をそっと自分の頬に押し当てる。
 僅かに引こうと力の篭る腕を、放すまいと握りしめ、無骨な指先へと軽く歯を立てた。
「おい……いい加減にしろ!」
 強く振り払い、立ち上がって睨みつける男の目を、直前までの誘惑するような素振りなどなかったかのように強い意思を込めて、マウナは睨み返した。
「イリーナは今日、どこかの男の人とデートしてる。あんたはここで腐ってる。
 それでいいのね、ヒースクリフ=セイバーへーゲン。
 あの子は誰がどう言おうと律儀で健気で、魅力的な子だわ。
 いつかあなたの知らないところで、今みたいなことをあなたが知らない相手とするのでしょうね」
 毒気を抜かれたような瞳が、事態が飲み込めていない様子で室内を彷徨う。
 そんな彼の様に少し子供っぽい好ましさを感じて、マウナは微笑んだ。
「……け。言われんでもわかっとるわい。
 あーくそ、気分悪ぃ。所帯染みた赤貧ハーフエルフに馬鹿にされちまった。
 今日はもう帰る」
 ぶつくさ言いながらハーフエルフに背を向け窓枠に足をかけ、何事か唱えかけてから、突然ぐるりと体ごと向き直る。
 きょとんとする彼女に大またで近寄り、その顔に顔を近づけた。
 至近距離で見る真顔の男に、マウナは動揺を禁じえないでいる。
 しなやかな動きで男の長い手が背に回り――髪を結わえたままのリボンを引っ張った。
「返せ」


  ■ ■ ■ ■ ■ ■


 迂闊だったというほかない。
 表に出ていた看板は小洒落た、酒を出す喫茶店のものだったし、店内も階下はそのものだった。
 上階は連れ込み宿になっていたことには、部屋に連れられて初めて気がついたのだ。
 しかし、その部屋に連れてきていながら無理に何かをしようとはしない男に初めて好感を抱いたことも確かだったのだ。
 ブランデーを垂らした紅茶をこくん、と飲み下す。
「本当は、見合いの話なんて御免だったんです。僕は」
 ふと男が、自分にも興味のある話題をし始めたのを、黙って聞く。
「世間では猛女と知られる人が、いったいどんな姿なのか。知らなければ、想像もつかない。
 ……こんなに、可愛らしい女性を猛女だなんて、誰が言い出したのか」
 思わずうんうんと頷いてしまう。
「……お願いが、あります。
 僕たちはまだ、初めてお会いしてから、1週間しか経っていません。
 ですが……どのような夫婦、恋人も、最初は見ず知らずの他人だった存在です。
 どうか、僕と、これからの同じ時を過ごす相手になってくれませんか?」

 半眼になりそうなのを必死で堪えるのを、男はどう解釈しているのだろう。
 もしかしてうっとりしているとでも思っているのだろうか。
「あの……質問してもよろしいでしょうか?」
 何なりとといった様相の男に、今日一日やんわりと嫌われるために頑張っていた少女は打開の糸口を探るべく声をかけた。
「わたしなどの、何が良いと思われたのですか?
 ……あまり、良い質問ではありませんが。そこまでのご決断をされらるからには、何かしら理由が御在りになららるることかと存じます。よろしければ、教えていただけませんか?」
 普段まず使わない言葉遣いに、何度も舌がもつれる。それも、男の目には緊張故に映ったようだった。
 跪いてイリーナの手を取り、甲にキスをし、その手をさらに両手で包み込むようにして、男は微笑みかけた。
「あなたは、ご自分でお思いになるよりはるかに愛らしい方です。その憂えるような瞳はまさに聖女と呼ぶにふさわしい」
 甘ったるくて、気障で、信用のならない言葉。
 それでも、自分に対し使われたことのない表現は恋愛経験に乏しい少女の頬を染めさせるのには十分だった。
「その……嬉しく、思います。ですが」
「ですが……?何か、不都合でも」
 男の手に、わずかながら力が篭る。
「時間をかけて、ゆっくり……というわけには、いきませんか?」
 少女の申し立てに、ゆっくりと首を振る男。
「それは、難しい話なのです。私には、あまり時間がない。それでは、困るのです」
「それなら、私でなくても」
「あなたでなければ困るのです、イリーナさん」
 そう言って、男はイリーナの肩を寝台へと押しつけた。
 跳ね除けようとしたイリーナの手を、何かが押しとどめる。
 それはつい先刻、悪くないかななどと思ってしまった自分の心だった。
 こんなことは良くないことだ、そう思うのに、何かが拒否することを拒否する。
 それは、あの象牙色の髪の男への反発。
『お前のような怪力馬鹿力のつるぺた娘に見合いしてくれるというだけでも、そいつの度量がわかるというものだ。良かったじゃないか、引き取り先が決まったようなものだな』
 何をこんなにも躍起になって、あの男を後悔させようとしているというのか。
 ヒース兄さんの、馬鹿。

 少しずつ服を脱がされるさまに、何故だかゆで卵の殻剥きが頭を過ぎる。
 そんな自分の思考を、馬鹿みたいだと一蹴する。
 そしてまた、ゆで卵。
 そうでもして他のことを考え続けていないと泣きそうになる自分を感じて、惨めになる。
 両手首から上着が抜かれ、上半身を隠すものが下着とチョーカーだけという頼りなさに、どうしようもなく不安になる。
 男の手が首筋に触れ、肩に触れ、腰に触れ、腕に触れる。
 優しく、優しく。
 呼吸がしづらい。
 どこからか響く荒い呼吸に耳を澄ませば、それは自分の呼吸音で、惨めを通り越して滑稽に思えてきた。
 丁寧に丁寧に体のラインをなぞられて、とうとう下着越しの胸の双丘へと手が触れた。
「ん……あ」
 自分の口からこんなに甘い声が出るものかと驚く。
「もう少し肩の力を抜いて」
 出ないと痛むぞ。切羽詰ったような声で耳元。囁かれる、違和感。
 こんなはずじゃあなかった。
 こんなことは、好きな人にだけ許していいはずのことなのに。
 ……でも、もう、取り返しがつかない。
 ごめんなさい、ヒース兄さん。
 どこからかヒースが名前を呼ぶような声が聞こえた気がして、イリーナは瞼を硬く瞑った。

「イリーナ……?」

 体の上から重みが消え、恐る恐る目を開ける。
 今一番会いたくない人が、窓から中を覘いていた。
 一瞬幻覚だと思った。
 瞬きして、それでも、消えなかった。
 思わず、泣きながら、その人の名前を呼んでいた。

「ヒース、兄さん……」

 状況はすぐには飲み込めなかった。
 半裸のイリーナがいて、その上に男がいる。
 イリーナは、泣いている。
 ソレを見たとき、答えは出た。

「イリーナ。帰るぞ」
「……ハイ」

 彼女が兄さんと呼んだのを耳にしたからか、男は何か言いたげでこそあったものの、帰還を邪魔立てすることはなく、ヒースはイリーナを連れて帰路を歩いた。
「……」
「……」
 お互いに無言、相手にかける言葉が見つからないでいる。
 先に口火を切ったのは、ヒースだった。
「イリーナ。なんで、その……あんなことに、なってたんだ」
「……ヒース兄さんには、言いたくナイです」
 服の乱れはとうに正してあり、一見何かあったようには見えないイリーナだが、その手はヒースの服の袖をしっかりと握り締めていた。
「……やめとけ、見合いとか。ていうかやめてくれ」
 足を止め、空を見上げ、呟くように小さなヒースの声はそれでもイリーナの耳に届いていた。
「……兄さんがどうしてもって言うなら、やめてあげます」
 イリーナはうつむくようにして、さらに小声で返答した。ヒースは、目を合わせないままに、服の袖を掴んでいたイリーナの手を握り締めた。痛いほどに冷え切った手が、夜空の中、自分を探していたことを言葉の無いままイリーナへ伝えていた。
「兄さんは、馬鹿です」
「そうだな。俺は馬鹿だ」
 冷たい手を両手で包み込むようにして、イリーナが呟く。
 その手の温かさに、全て悟られたことを察して、ヒースが呟く。
 振り返り、少し真剣な顔でイリーナに聞いた。
「あいつに、キスはされたのか?」
 イリーナが首を横に振ると、そうか、とだけ呟いて、ヒースはその長身を屈めた。