いよかん






 空の色はいつにもまして深く、暗く。
 俺は立ち止まったまま、ぼーっと夜風に吹かれてみた。

 ついさっきまで、いつものように茶色の頭を撫でていた手を、何気なく握り、開き、また握ってを繰り返す。
 正直言って、温かいってことがこれだけ泣きそうになることだなんて、初めて知った。
 
 さっき、いつものように。
 いつもと同じように手を振って別れるはずの道で、なんだか妙に別れが惜しくて、当たり障りのない世間話を振って、ちょっとだけ意地の悪いことを言って、妹分を困らせた。
 本当にしたかったのは、頭を撫でるとか、そういういつものことじゃなかった。
 いや、いつもと同じような行動ひとつにも、いちいち泣きそうになってる俺がいることは、認めるが。
 何で抱き締めなかったのかと自問する。
 アレはそういう対象じゃないと、俺のどこかが即答する。
 別のどこかは囁いている。
 大切に想うってこと、その方法はひとつじゃないと。
 妹みたいなものだと思ってきた。

 (ホントウニイモウトナラ、ドレダケヨカッタカ)

 兄みたいなものだと思っていた。

 (デモ、ソウジャナカッタ。タイセツニオモイスギテ)

 そうだ、大切を伝える方法はひとつじゃない。
 兄代わりとして支えるのも、その方法だったはずだ。

 (ソレナラ、ナゼ、モノタリナクナッテル?)

 わかってる。
 失うと思ったことが、冷たい体が。
 抱え直すときに見た、白濁を始めた瞳が。
 それだけはこないと思っていた現実が頭を殴ったその日から。

 結局自分にとって、あの少女は妹ではないのだと思い知らされた。

 大きく、大きく溜息を付いて、杖で肩を叩く。
 そろそろイリーナは家に着いた頃だろうか。
 いい加減、自分も自室に戻らなければ。
 自室に篭って、まあ、なんなりと、この鬱屈した感情の処理方法などいくらでもあるだろう。
 さあ、足を動かせ、オレサマ。
 右足か?左足か?どちらから動かせばいい。どうすれば寮にたどり着く?




 気がつけば、ファリス神殿の前でぼーっとしていた。
 こんなことじゃ駄目だろおい!?
 頭を抱えても、足は動かない。
 正直言って、今の頭じゃ歩きなれたこの辺の道筋さえ思い出せない。
 今、わかるのは、あいつの部屋への道順だけ。
 熱にうなされたみたいな思考回路は、それでも考えることを止めない。


 明かりの漏れた窓から、調子っ外れな鼻歌が聞こえてくる。
 ♪じゃーすてぃすじゃーすてぃす、じゃあッくなんかはぶったぎれー♪
「どんな歌なんだソレは……」
「クリス兄さんに教えてもらった歌です……って、ぇえ!?」
「よ。」
 思わず突っ込んだ言葉に、慌てて窓から外を覘くイリーナ。いつもの神官衣だが、ケープだけは今脱いでいたところなのか、腕に引っかかっていた。
 俺は努めて普段どおりに、軽く手を上げた。
 しばし、沈黙が降りる。
 あ、どこかでフクロウが鳴いてる。
 イリーナの腕からケープがはらりと落ちる。
 その感触で、イリーナは状況を把握――はできなかったようだった。
「よ、『よ。』じゃありません!何してるんですかこんな時間にそんなところで邪悪ですか邪悪ですねそうなんですね邪悪退散悪即斬!」
 多分に条件反射なのだろう。壁に(丁寧に、まるで飾るかのよーに)立てかけてあったグレートソードを振りかざし、飛び掛ってきた。
 その体を支える細い足首、それに繋がる清楚な足が窓の桟に掛かり、薄桃色の小さな薄い爪が生えた少し丸っこい足指に力が篭る。
 屈んだ体制で左腰、既に抜き身でありながら抜刀の構えでもって振り回されようとしている、世界でも扱える人間は少ないだろう大剣を握る指は、それでも華奢で、一見非力そうにすら見える。
 猫科の動物を思わせるようなしなやかさ、獲物を狙う鳥を思わせる勢いで少女の体は跳躍した。
 ――窓の外だってことに、なんの疑問も感じてなかったのか!?
 まるで戯画か何かのように、空中で状況を把握し、引き攣った表情がイリーナの顔に張り付く。
 最初から浮いていた俺と、2階から飛び出した彼女の足元に、地面なんかなかった。
 慌てる彼女の腕から、グレートソードがするりと抜け落ちる。
 どすっ。
 それは慌てて投げ出した俺の杖――長いこと発動体として使ってない――をざっくりと上下二つに泣き別れにしながら、地面に深々と突き刺さる。
 体を固く、しかし受身の体制に竦めたまま、イリーナはそれを見つめて青い顔をしていた。
「わ……わたしの、グレソー……」
「いや、そっちは無事だろ、多分」
 いかにしてハーフェンに気付かれないように杖を処分するか、必死に頭脳をフル回転させながらも突っ込むことは忘れない。
 いや、ごめん。オレサマ嘘ついた。(ワザとじゃないから許せ、カミサマ。)
 必死になって考えてたのはそんなことより、慌てて受け止めた腕の中、気がつけば抱き締めあう形になっていた物体が、意外に柔らかくて想像以上にあったかいことについてだった。


「えーっと、あの。……兄さん?」
「ん?」

 恥ずかしそうにうつむき、段々赤く染まっていく頬。それでも足場のない不安定な状況に、俺にしがみつくしかない、イリーナ。
 ……可愛い。いや、なんか、本気と書いてマヂで。

「とりあえず、なんでさっき窓の外にいたのかとか、そういうことは一旦不問にしますから。」
「ほほぉ。それはたいへんアリガタイ。アトデキッチリ追求サレマスカ俺様。」
「その……そろそろ、下ろしてクダサイ。」

 恥ずかしさからか潤んだ瞳が、俺を見上げる。
 正直、今この瞬間に死んでもいいと思った。
 そう思った次の瞬間、本気で死にたくないと思った。

「……イヤデス」

 耳元でそう呟いて、強く抱き締めた。
 俺は、こいつと、生きて、生きたい。


 頬を摺り寄せる。
 すべすべして、柔らかい。
 胸が苦しい。
 今だけでもいい。
 これが原因で嫌われたっていい。
 視界が熱く潤む。
「……イリーナ」
 肺から押し出した声は低く、震えている。
 声だけじゃない。全身もまた、寒くも無いのに震えている。
 腕の中、とまどう少女がむずかるようにしがみつく。
「イリーナ」
 もう一度、名前を呼ぶ。
 茶色い、柔らかい髪を慈しむように撫でながら。
 少し痛々しいくらい真っ赤な顔をした彼女が、ようやく顔を上げる。
 視線が合う。
 眉根が困惑に寄せられ、すぐに視線を逸らされた。
 何かを言いたそうに薄く開いた、桜色の唇。
 非難の言葉が出るのが怖くて、それを塞いだ。




「兄さんは……邪悪ですか?」
 部屋に入るなり俺の腕から飛び出した少女は、腰に手を当て仁王立ちである。
「……返す言葉もアリマセン」
 俺はというと、その迫力と正論に圧倒され、思わず正座かつ平身低頭である。
 少しだけ冷静さを取り戻した俺の頭は、さっきまでの行動を全力で罵倒している。
 何が『嫌われてもいい』だこの大馬鹿野郎!?
「本日ノ所業ハ非常ニ、ハイ。出来心デシテ。ドウカオ許シイタダケナイデショウカいりーなサン?」
 声は裏返り冷や汗はだらだら。
 ジト目の視線がこれほど痛いのは初めてだ!?
 このおじょーさんに全力かつ手加減抜きで殴られた日にゃあ、オレサマあっさりあの世に逝ける。気絶で済むとか難しい。
 さっき一瞬『もーこれで死んでもいー』とか思ったけど『やっぱり死にたくなーい』とか思っちゃったりなんかしちゃったりしたわけでー。
「出来心、ですか?」
 とはいえ完全に非はこちらにある。
 最初窓の外にいたのだって、ノゾキとか出歯亀もしくはピーピングトムだったんですかと言われたとしても仕方ない。
「申シ訳アリマセンデス、ハイ」
「出来心で、女の子の大切なもの、ひとつ取ってっちゃったんですね?」
「……へ?」
 何故だか切なそうな声で呟いたのを耳にして、無意識に顔を上げる。
 一瞬、憂いを浮かべた視線が、床を見つめ――絶対零度の物へと豹変して、俺を射抜く。
「あとグレートソード」
「本気ですいませんッ!?」
 思いっ切り床に頭をこすり付けた。
 特に大きな傷などはなく、俺の目には問題ないように見えたが、丁寧に丁寧に土を拭い布で磨いたイリーナ曰く、刃毀れが増えているとのこと。わ、わからん……
「ひーす兄さん?じゃあそろそろ、顔を上げて、しっかり歯を食いしばってくださいね♪」
 眼前の少女は、にっこりと天使のように微笑みながら拳をワキワキと握り、開き、また握ってを繰り返す。
「いりーなさん?手加減くらいはしてクダサルノデショーカ?」
 今度は脂汗が流れてきた俺の額。そこに張り付いた髪の毛を指先で払う少女に、何か空恐ろしいものを感じて、一応確認してみる。
 にっこり笑って、彼女は答えた。
「そんなの、私の気分次第です」
 そして拳が振り上げられる――!


 思わず目を閉じた俺に、予想した衝撃は訪れなかった。
 その代わり、唇に、温かい感触が、一瞬だけ触れて。
 驚き、目を明けたその至近距離に、イリーナの笑顔があって。

「覚悟してくださいね?」
 その一言とともに、すさまじい衝撃のヘッドバット。
 意識が、暗転する――その中で、何か耳元で囁く声が、聞こえたような気がした。


「私、兄さんのこと、■■デスヨ?」